ずいぶん前に読んだ ふかわりょうさんのコラム が、ふと頭をよぎります。
子どもたちの運動会で、ビデオカメラを片手に走り回っていた頃のことです。
あの頃のわたしは、大事な想い出を「記録として残すこと」に夢中になっていました。
そして今、また別の形で同じことを繰り返している自分がいます。
ただ、リンゴがミカンに変わってやってきただけ。🍎🍊
人生って、ときどき同じ問いを、違う姿で、何度も現れてくるんです。
今日はそんなことを考えた「ひとりごと」です。
いいね、なんていらない
ふかわりょうさんのコラム『いいねなんて、いらない』のなかで、ある一節に心が留まりました。
目の前にあるものを、レンズ越しではなく体全体で感じたい
残せる安心感よりも、残せない緊張感
この言葉を読んだ瞬間、何十年も前の運動会の風景が、ふっとよみがえってきたのです。
運動会で、わたしは何を見ていたのだろう

子どもたちが通っていたのは、マンモス校でした。
トラックの周りには保護者が何重にも並び、入場門、退場門にも人があふれています。
わたしはカメラを片手に、子どもたちの姿を追いかけていました。
少しでも近くで撮りたい。
いい場面を残したい。
そう思って人をかき分け、ようやく撮影できる場所へたどり着く。
けれど、その頃にはもう競技は終わっていて、子どもは退場門へ向かって歩いている。
結局、子どもの姿は撮れないか、撮れても一瞬だけ。
何をやっているんだろうと思いながらも、兄弟がいれば考える暇もなく、今度はそちらへ移動する。
そんなことを繰り返しているうちに、気づけば一日中カメラマンをしているような気持ちになっていました。
保護者として運動会を楽しむというよりも、「良い映像を残すこと」が目的になっていたのです。
カメラを置いた日

ある年、ふと自分に問いかけてみたんです。
「わたしは何のために運動会へ来ているのだろう」って。
子どもたちの頑張る姿を見るため、応援するために来たはずなのに、気づけばいつもファインダー越しにしか見ていない。
せっかくの子どもたちの表情さえ、取りこぼしているように思えてきました。
その瞬間を体全体で感じ、心に刻むこと。
それこそが本当の記憶として残るんじゃないのかなって。
ようやく、そう気づいたのです。
それから、競技中のビデオ撮影や写真撮影をやめました。
写真は残らなくてもいい!
この目で見よう!
踊る笑顔も、一生懸命走る姿も、歓声やその日の空気も。
すべて自分の目で見て、心の中に記憶しておこう。
そう思うようになりました。
写真は少なくなったのに、不思議なことに、あの日からの運動会の光景は今でも鮮明に覚えています。
きっと、カメラマンとしてではなく、自分の目で「見ること」に集中できたからなのでしょう。
その瞬間の感動や場の空気は、何物にも代えがたい貴重な記憶となっています。
もちろん、お昼のお弁当を美味しそうに食べる子どもたちの様子は、しっかり撮っていますよ🍙
リンゴがミカンに変わっただけ
そんな昔の出来事を思い出したのは、最近の自分と重なったからかもしれません。
以前、インスタグラムをしていた頃、「いいね」がつくことが嬉しくて、フォロワーが増えることも励みになっていました。
でも、いつの間にか数字に振り回されるようになっていったのです。
投稿したあと、何度も画面を開いて確認する。
増えれば嬉しい。
思ったほど増えなければ落ち込む。
そんな一喜一憂する自分を見て、どこか見苦しいなと思うようになりました。
そして、少しずつ熱が冷めていったのです。
最近は、あるきっかけがあって、別のSNSに文章を投稿してみました。
すると、また同じことが始まりました。
反応はあっただろうか。誰か読んでくれただろうか。
何度も画面を開いては、一喜一憂する自分。
ああ、また同じことをしている。
結局のところ、数字に一喜一憂してしまうのは、わたし自身の中にある癖なのだと思い知らされたのです。
人生は同じテーマを運んでくる
人生って、同じテーマが形を変えて何度も現れるものなのかもしれません。
ただ、リンゴがミカンに変わっただけ。
運動会ではカメラ
インスタでは「いいね」
そして今度は文章への「反応」
姿は変わっても、問いかけてくるものはずっと同じです。
わたしは
何のためにここにいるのだろう
何のために見ているのだろう
何のために書いているのだろう
一度乗り越えたと思っていても、また違う姿で現れる。
そして、そのたびに立ち止まり、自分に問いかける。
そんなことを繰り返しながら、人は生きていくのかもしれません。
人の「いいね」より、自分の「いいね」を
「いいね」を楽しめる人は、それでいいのだと思います。
ただ、わたしはどうも不器用らしく、気がつくと数字に心を預けてしまいます。
そして、また同じところで立ち止まる。
人生は、リンゴがミカンに変わっただけなのかもしれません。
ふかわりょうさんは、
人の『いいね』よりも、自分の『いいね』がひとつあればいい。
と書かれていました。
心では本当にそう思っているのに、その境地にはたどり着いていません。
きっとこれからも、数字を見てしまう日があるのでしょう。
でも、そのたびに思い出したいのです。
運動会でカメラを置いたあの日のことを。
レンズ越しではなく、この目で見ようと思った日のことを。
人の「いいね」が欲しかったのではなく、「自分自身が納得できる時間を過ごしたかったのだ」ということを。
人の「いいね」ではなく、自分の「いいね」がひとつあればいい。
今のわたしは、そんなことを考えています。

最後に、そんな想いを詩にしてみました。
また同じことをしている
そう気づいた日は
少し情けなくて
どこか可笑しい
乗り越えたと思っていたことが
形を変えて目の前に現れる
人生は
案外、律儀なのかもしれない
忘れた頃に
そっと宿題を差し出してくる
問いは同じ
リンゴがミカンに変わっただけ
「ああ、また来たんだね」
答えは
まだ 見つからない
人生は、何度でも同じ問いを運んできます。そのたびに落ち込み、そのたびに立ち止まり、それでも少しずつ前へ進んでいく。そんな「心の持ちよう」については、以前こんな記事も書きました。














