「断捨離」というと、まず思い浮かぶのは物質的なモノの片付けなのかもしれません。
クローゼットの奥にしまい込んだ服、何年も使っていない食器。
けれども、シニアと呼ばれる年代にさしかかってみると、本当に整理すべきものは、モノ以外にもっと別の場所にあるのではないかと感じるようになりました。
長年続けてきた付き合い、勤め上げてきた仕事の役割、そして自分の中に染みついた「こうあるべき」という思い込み。
物だけでなく、人との関係も、時間の使い方も、心の中にしまい込んだ感情も、気づかぬうちに、たくさんのモノを抱え込んだまま生きてきたのかもしれません。
今回は、シニアだからこそ気づけた、手放すことの意味を、いくつかの実体験とともに綴った「ひとりごと」です。

時間の断捨離

なんとなく過ぎていく一日、なんとなく後回しにした用事、なんとなく先延ばしにした夢。
若い頃は、時間は無限にあるもののように錯覚していたようです。
しかし残りの人生が見えてくる年代になると、時間の有限さが急にリアルになってきます。
そこで大切になるのは「何に時間を使うか」ではなく、「何に時間を使わないか」を決めること。
惰性で続けていた習慣、義務感だけで参加していた集まり。
そうしたものを一つひとつ手放していくと、本当に大切にしたい時間が、静かに浮かび上がってきます。
今日という日は
残りの人生の最初の日
※エマーソンさんの言葉より引用
人間関係の断捨離

この年齢になると、知人や友人から「年賀状を今年で辞退する」という旨の年賀状が届くことが多くなりました。
年賀状だけのお付き合いになっている相手も少なくなく、続けることに無意味さを感じる自分がいたのも事実です。
終焉に向け、「人間関係もまた断捨離が必要なのでは」と、心のどこかで感じていました。
ただ、元旦の朝、ポストに年賀状が届く瞬間は、昔からの良き風習であり、毎年の楽しみでもあったのです。
「今年は誰から来るかな」とわくわくする気持ちもあって、なかなか決断できずにいました。
決断のきっかけは、会社を退職する前に「今年で年賀状をやめます」と宣言しておこうと思ったこと。
これを機に、会社関係だけでなく、友人、知人すべての方へ、丁寧な「年賀状じまい」を今年出しました。
年賀状じまいの一枚一枚に、私は心の中で小さくつぶやいていたのです。
「ありがとう、さようなら、また新しい出会いの日まで」
それは関係を断ち切る言葉ではなく、これまでの繋がりに感謝を込めて、そっと区切りをつけるための言葉でした。
形式的な付き合いを手放すことは、薄情になることではありません。
むしろ、本当に大切な人との繋がりを、より鮮明にするための整理なのだと思います。
役割の断捨離
退職の最終日は、複雑な気持ちでした。
長年愛用してきた文房具、積み上げてきた書類の山、パソコンの中に構築してきたデータたち。
引き継げるものはすべて後任者へ渡し、残ったものはシュレッダーへ。
パソコンのデータはゴミ箱へ入れ、そのゴミ箱もまた空にして、すべてのモノたちをすっきり消去。
最初に感じていた複雑な気持ちの正体とは、寂しさでした。
この机で努力し、成果物を作り続けてきた自分が、明日からはもう存在しない・・・そんな寂しさです。
しかしその寂しさの裏側で、机を空にしていくにつれて、不思議と解放感が生まれてきたのです。
「役割」という名の重荷から、自由になっていく感覚。
次のあらたなステージへ向かって、自分の足で歩いていけるのだ、と。
そんな晴れやかな気持ちで、最終日を迎えることができました。
空っぽになった机を見つめながら、私は心の中でつぶやいていました。
「ありがとう、さようなら、また新しい出会いの日まで」
「役割」を脱いだあとに残るのは、何も持たない自分ではありません。
むしろ、何にも縛られない、本来の自分でした。
感情の断捨離
過去の後悔、誰かへの不満、言えなかった一言。
そうした感情を、心の引き出しにそっとしまい込んだまま、長い年月を過ごしていないでしょうか。
引き出しの中身は、しまった本人にしか見えません。
けれども、見えないからといって、軽くなっているわけではありません。
むしろ、しまったまま放置された感情ほど、静かに重さを増していきます。
ときには引き出しを開け、中身を眺め、「ありがとう、さようなら」と心の中で告げてあげること。
それもまた、断捨離の一つの形なのだと思います。
「こうあるべき」の断捨離

田舎に住む両親の介護が現実になったとき、わたしの頭には迷いがありませんでした。
母は末期がん、父は認知症。兄もすでにがんで亡くしています。
「わたしが実家へ帰り、介護をするべきだ」と、それ以外の選択肢は、最初から存在しないものだと思い込んでいました。
長年勤めた会社を辞め、住み慣れた土地を離れ、田舎へ帰る。それしかないと信じて疑わないわたし。
ところが、ある人の何気ない一言が、私の中の「べき」を静かに崩しました。
「両親を、こちらに連れてくることはできないの?」
その瞬間、目の前の景色が変わった気がしました。
介護は「自分が実家に帰ってするもの」という思い込みは、いつの間にか自分がはめ込んでいた型だったのです。
誰に強制されたわけでもないのに、「こうするのが当然」と決めつけ、その枠の中でしか物事を考えられなくなっていました。
視野が狭くなる、というのはこういうことなのだと思います。
選択肢は本当はいくつもあったのに、「べき」という思い込みがそれを覆い隠していました。
こうあるべき、を手放したとき、初めて本当の意味での選択ができるようになります。
それは介護に限らず、人生のあらゆる場面に言えることかもしれません。
※両親の介護を巡る詳しい経緯は、こちらの記事でも綴っています。よろしければご覧ください。

未来への不安の断捨離
「老後が心配」
「病気になったらどうしよう」
「お金が足りるだろうか」
シニアになると、こうした不安が次々と頭に浮かんできます。
しかし、不安そのものを完全に消し去ることはどうしてもできません。
手放すべきは不安そのものではなく、不安に支配されている心のありようだと思います。
不安を感じながらも、今日という一日を丁寧に生きること。
それができたとき、不安はもう心の中心を占めることなく、傍らにそっと置いておけるものではないでしょうか。
これもまた、断捨離の一つの形かなと思います。
軽やかな心へ
ものを捨てることは、自分と向き合うこと
振り返ってみると、断捨離とは決して「ものを捨てる行為」だけではないことに気づきます。
自分が本当に大切にしたいものを見極めるための、静かな対話なのではないでしょうか。
「ものを捨てる」ということは、自分自身の心と向き合うこと。
手放すことは、失うことではありません。
むしろ、本当に大切なものだけが、手(心)の中に残っていく過程なのだと思います。
おわりに
今回の記事を書きながら思い浮かんだ短い言葉を残しておきます。
感謝と別れ
ものに執着していると心が重くなり
自由が制限された気持ちになります
時には手放すことも必要
執着を手放して
心の軽やかさを手にいれてみましょう
でもその前に静かに目を閉じて思い出そう
あなたがくれた
たくさんの幸せとたくさんの喜びに
そして 心を込めてお別れしましょう
「ありがとう さようなら また新しい出会いの日まで」
ものを捨てることは
単に「ものの別れ」ではなく
自分自身の「心と向き合うこと」
それは 明日という日への 静かな始まり
アルボムッレ・スマナサーラさんの言葉
ものを捨てるときは
いい気分で捨てましょう
※アルボムッレ・スマナサーラさんの言葉より引用













